出版社ロゴ

百合と(の)ゼロ年代:and/of/and(of) -> with

2024年03月17日投稿 / 12,351字

はじめに(ReadMe)

批評文脈における「ゼロ年代」と、それが指した「00年代の作品群」は本来異なる。
言葉の定義自体が、作家サイドからの名乗りによるもの(ex.「やおい」等)ではなく、それが批評であるならば『極めて客観的な外部』から与えられたものである。
一方、ゼロ年代における批評の対象に、当時過渡期にあった「百合」はほとんど含まれず、現在に至るまでほとんど参照されていない。

『零合』第2号は「作家が作品と切実に向き合う行為に、読者もシンパシーを覚えた時代」を強く意識した。
「切実と純愛」の通り、いま一度「物語」を作る原始的な営みの本質を「百合」を通して、捉え直す試みである。
編者は当時の批評(特に「セカイ系」と「レイプ・ファンタジー」を論じたもの)に乗れず、頷けなかったからこそ「百合と(の)ゼロ年代」をテーマに据えて本を編んだ。
これにシニカルな態度を抱く読者も多いだろうが、それ故に「百合」という言葉の関心の外にいる、「ゼロ年代」というワードが引っかかる者に届けたい、という目的意識があった。

高橋しん・佐藤友哉・片山恭一(各敬称略)ら当時「批評される側」として中心的だった作家らが一堂に会すること。文学的な「語り直し」が一つの狙いであった以上は「批評的な場」とも捉えられる。
当時使いつくされた「ゼロ年代」と、当時生まれなかった「切実と純愛」というフレーズで、新鋭とともに「百合において、進歩的に『ゼロ年代』という言葉が持つ文脈を更新したい」という野心もあった。
寄稿作家の総意ではない点を予めご留意頂きたい。これはあの頃に屈折した愛と憎を抱いて育った『非』批評家による「ポエムのようなもの」だ。
あくまで『零合』編集長もとい当方文責による「私的な論」であり、いまはまだ「新説の提示」でしかない。

『女性の物語』とは何か - 創刊号より

女性が主人公かつその周辺を含めて女性が主導的・能動的にかかわるドラマ、つまりは「女性によって動いていく話」を『女性の物語』としている。
『零合』では、語り手が主体性を持つ・有していく中での「関係の変化」を『広義の百合』として捉えており、これは第2号までに掲載の全作に言えるものだろう。

ふたりを切り取る枠 - なぜ百合は(小説以外で)発展し得たか

本題に入る前に、現在「百合」がどの媒体で発展し、どのように受容されているかの前提を明確化したい。
漫画ではコマ、アニメなど映像媒体ではフレームという、文字通りの「枠組み」(制約)が存在する。
これは「ふたりを客観的に見ること」=「百合」と捉えた際に、「百合」はそれらの媒体と好相性の観念である。

■「百合」とはどんなジャンル?

柴田 ──まずは百合というジャンルに馴染みのない読者に向けて、どういった傾向の作品を指すのか教えてください。

中村 一言でいうのは非常に難しいのですが、「女性二人の関係を第三者視点で見て感じるもの」でしょうか。

梅澤 そうですね。女性同士ならではの関係性、もしくは片方がもう片方に抱く感情を、第三者視点から読みとるものという傾向があるかなと思います。

上記は2018年秋に収録されたとあるが、現在においても概ね「百合への共通認識」として違和感なく受け止められるはずだ。
極論「受け手から見たふたりの関係が魅力的なこと」が求められ、第三者視点として「主人公そのものへの感情移入」は欠いてもよい。
(※ただし、群像劇的に描かれること≒多元視点ほど感情移入の対象が生まれやすくなる『百合に限らない近年の流行』にも留意が必要である)

漫画媒体への越境と布石 - 「百合」への感情移入

最初に、第2号掲載の漫画作品・燈河佑「この曲ラブソングは現在ご利用になれません」に触れておく。
特筆すべきは、主人公の語りが作中の大きなウエイトを占め、美星という人物の不在こそが感傷を引き立てる構成を取る点だ。
小説では、一人称であれ二人称であれ「わたし」=主観(一元視点)で展開される物語が中心となる。
『零合』掲載作は漫画を含め全作品がこれに該当し、前段を踏まえるなら「一般的な百合観」とのギャップがここにある。

「主人公が他の女性に向ける感情への共感」と、「主人公の叫びに対する読者の直接の共感」は、似て非なるものだ。
だからこそ、創刊号・第2号を通して、2020年代の今こそ声を大にして伝えたいテーマは以下になる。

「かつて少年の物語に感情移入した少女がいたように、読者は自身の性と関係なく、主人公に感情移入して物語を追ってみてほしい」

「誠実」と「切実」の狭間で - 第2号での問題意識

誠実さ(創作者⇒読者) - フィクションの理想のキャラクター

「ふたりを見守ること」ことを強く意識した作品が求められる中で、「ふたりが外からどう見られるか」という『理想像』を求める読者と、それを受けた作者の応答によって成り立つもの。

切実さ(作品⇒創作者) - 存在したかもしれない自分自身

作家が物語から受ける要求、読者がフィクションでありながらも見世物ではない・生の痛みでありリアルだと感じる現実と地続きの要素、「作品世界の内では人間である」という意識。

後述する「悲劇」にも繋がるが、悲しみ・切なさといった痛みの感情は、本来ネガティブでありながらもフィクションの読者を惹きつける巨大な一要素として存在し続けている。

そういえば――高橋しん氏のカバーイラストの打ち合わせにおいて「作画の対象」を指す際、先方も必ず「キャラクター」ではなく極力「人物」という表現を用いていた。
『零合』における「百合」の認識として、かつ第2号の仕事の中で最も示唆的な点であり、忘れないようここに記録しておく。

狭間にある「百合」とは

「百合」イコール同性愛表象ではないが、隣接している故に同一視されやすい観念である。
社会の理想像(正解と言ってもよい)を引き受けざるを得ない/正しくあることを強く求められる領域とも言える。
『零合』では女性の同性愛表象=ガールズ・ラブ(GL)=「百合」と直接結ばず、前段にもあるように『より包摂的な観念』として「百合」を捉える。
一方、BL/GLは「同性愛表象を扱う作品における対義語」として結んでよいと考える。
この執筆中にも、新聞社等パブリックなメディアにおいて「BLと百合」が並置されるのを見かけ、編者はこれに表現者として一定の違和感を抱く。

社会の鏡像を担う「百合」と文芸

こと文芸の「百合」においては、誤った在り方をあえて示すことで問題を浮き彫りにする、アイロニカルな作品の存在感が高まっている。
旧態依然な人物・価値観の否定を通して、現代における正しさを希求する作品は、新たな典型として定着したと言ってもいいだろう。
マイノリティ消費への反感を含み、作中での〝ヴィラン〟と言うべき人物は滑稽に描かれ、間接的に「これは虚構である」とマジョリティの読者に客観視を促す、風刺文学的な側面にエンパワメントされる者も多い。
当事者性を帯びた作品を、非当事者が教訓的に受け止め、当事者は共感込みの距離感で受容する、これは(漫画媒体が先行しながらも)商業における根強いニーズに応えたものである。
ただし風刺とは、究極的には客観的思考に基づいて成されるもので、裏を返せば「わたしの痛みを痛みのままに描くことができない」とも編者は考える。

物語はなぜ描かれるか - 主人公の人生を歩むこと

「『小説が書かれ、そして読まれるのは人生がただ一度であることへの抗議からである』」

「わたしの好きな作家の言葉です」

  • Key『リトルバスターズ!』(2007)

本コラムに際して、ゼロ年代の当時にこの引用を行った作品の位置付けを考え込んでいた。
二重鉤括弧内は、北村薫『空飛ぶ馬』(あとがき)の有名な一節である。
(原文では〝小説が書かれ読まれるのは、人生がただ一度であることへの抗議からだと思います〟)
物語には大きく悲劇と喜劇があり、一般的に後者として受け止められるものも、解体した際に「まったく悲劇を含まない」ことは稀である。
なお、上記の引用は以下のように続く。

「本を読んでいる間は、その主人公になれるような気がする」

「…わたしは、二人分の人生を生きるために本を読んできたのかも知れません」

  • Key『リトルバスターズ!』(2007)

構造として「悲劇の克服により結着する物語」の普遍性を持ちながら、「作品自身への自己言及」とも感じられる印象的なフレーズであった。
いわゆる美少女ゲームに属しつつも、男性主人公の最終的欲求の解消を主眼とする物語から明確な脱却のみられる、批評的な「ゼロ年代」に終わりを告げる作品の一つだった。
(※余談だが、同作のヒロイン同士を描く二次創作は過去のKey作品に比べて明確に増加したこと、「百合」を描く作家の土壌として寄与したことは、もし「百合史」を編む者がいるならば研究・定量化されて然るべきと感じる)

「ゼロ年代」の後退、「百合」との交代

ここで「ゼロ年代」批評の話に戻ると、当時「百合」の存在感は非常に薄かった。
第2号の序文にも記したが、批評自体が男性の中で収まり、当時は女性読者中心だった「百合」はその眼中になかったとの印象である。
時代背景として、当時の季刊誌『コミック百合姫』(『月刊コミックZERO-SUM』増刊)の独立創刊が2008年初頭、後に大ヒット作も産むライト層向け姉妹誌『コミック百合姫S』(男性読者の比率が高いとされた)創刊も2007年の中頃だ。
ゼロ年代が2007年以前を主な対象とするならば、現在に繋がる「百合」の潮流を読み解くにはその直後である2008年前後を重要視すべきだろう。
00年代において、サブカルチャーにおける「ゼロ年代」批評と「百合」は、最後まで交差することなく、ほとんど入れ替わりのように現れた。

商業の「百合小説」が登場する20年代

「百合」が漫画媒体からのメディアミックス=主にアニメへの他媒体へ進出を経る中、商業の文芸で「百合」が明確に示され始めるのは2020年代からである。
毎年「百合小説」を冠した書籍の刊行が行われるのは、2022年『彼女。 百合小説アンソロジー』(実業之日本社刊、2024年に文庫化)、2023年『百合小説コレクション wiz』(河出文庫刊)を待つことになる。
これにより、2022~2024年の3年間は「文芸において百合小説の新刊がある」、つまりは空白期のない時代になった。

言い換えると、文芸の「百合」は漫画から遅れること15年以上でようやく商業でも成立したことになる。
以下、過去の自身の発言の振り返りで恐縮だが、現在は「長い爛熟期を迎えている」との認識である。

同人として/百合小説は成熟したか - 2019~2022

 ボーイミーツガールがあり、ボーイズラブがあり、それらに比べて後から来た「百合」は正しさや洗練を最初から求められます。けれど、物語は本来「登場人物のためのもの」と信じます。「人間」に嘘がなく、そこに「本物」があれば、読者は自然と魅せられます。作家の気分・意識、メッセージ性はその先に宿ると考えます。
 「殺伐百合」は、簡潔に言うなら「殺伐」を冠することで見る・見られることにおける(最適解的な)「百合らしさ」の呪縛から自由になれる観念です。

上記同人誌にコメントを書いた当時は、あくまでも表現者として「決められた形」から逃れたい一心だった。
一方、物語を「らしさ」の引力から解放するのは、反面安心できる百合=和を乱す存在ではないか、とも考えた。
実際は「乱れる和が存在するほど、文芸での百合は定まっていない」のだが、混迷の中で小社『零合』は2023年に創刊した。

畏れ多くも、前段の『彼女。』には同人誌として先行し、『wiz』とは商業の場でほぼ同時に、百合総合文芸誌――目下は「アンソロジーに毛が生えた程度」と自認している――は追いつくことになった。
内幕を明かせば、2020年頃に「電子雑誌・季刊としての創刊」に動き出したものの、紆余曲折(高望みしたと考えてもらって差し支えない)の結果「商業流通する書籍」の形を取った次第である。

商業として/百合文芸誌は続くのか - 2023~2024

 いま、百合は熱的死を迎えつつあります。

創刊の1行目から「百合」の死について語ることに、動揺した読者も多かったように思う。
しかし確かに個人的な肌感覚を示したもので、切実さとしか言えない危機感に満ちたものでもあった。
『殺伐百合』のそれを踏まえたとき、既に文芸の「百合」そのものは、このままでは袋小路に陥るとの確信があったためである。

 百合は無意識の誠実さに呪われています。

実際、ちょうど一月前(2024年2月)に続刊されながらも、『零合』第2号の序文はこのように続く。

ジャンル化ゆえの狭窄 - 「前駆する失敗」の否定

 安心安全で世界と無縁。閉じた「ふたり」を見守ることを強く要請される領域にあります。
 ゼロ年代には、感情移入との言葉がよく使われました。劇の主人公に自己を投影・没入し、遠い世界をゼロ距離で享受している。そんな「ぼく」への羨望と批判は、作中でも現実でも、男性の内で閉じていました。当時の虚構を愛する者として、者だからこそのやり残しです。
 女性の物語が、わたし自身あるいは彼女により、恢復ないし結着される。フィクションが作られ論じられるとき、俎上に載らない「彼女なりの理屈」をすくい上げ捉え直す必要性。
 遠い「きみ」を、近い「わたし」の出来事にし、それらを自分事として受け止める試みが『百合と(の)ゼロ年代』のテーゼです。主人公は、宿命論的に世界と関係して、さまざまな物事を背負い、葛藤し、呪いを克己してゆく中心人物だったはずです。
(中略)
 百合は誠実さに呪われていないか。想像の翼を切り捨ててはいないか。作家が虚でなく身を切れる場がいま百合において存在し得るか。彼女たち、と無意識に他人事にしていないか。
 求められる誠実さと、物語られる切実さは、そのような緊張の中にあります。

上記『零合』第2号の序文で示した疑問は、平叙文に直すと以下が主旨になる。

主人公(ふたり)を見守るという暗黙の了解は、読者=主人公を否定するもので、結果的に「主観的な物語の受容」を阻害し得る。
悲劇が克服される中途でさえ主観的な痛みが覆い隠され、読者の保護を重んじる時代であるが故に、失敗・間違いを描けない点で自由さを失いつつある。
過去の文化に触れ「選ばれなかった物語」=「百合」の再興を試みる者として、創作者/読者の分断に発展する注視すべき事態で、現状追認できる段階にもない。

物語の類型化(洗練と言ってもよい)を回避することは、即ち作家にとっても読者にとっても「ジャンルが開かれたものである」と示すことだと考える。
作品に正解・不正解がないことを許容する立場として、上記の問題意識は以下3点に絞られる。

①社会的な要請へ応じるように発達した「文芸的な百合の受容」が「文芸での百合の需要」として直ちにイコールで結ばれ、成立して差し支えないとされる現状への立場表明。
②ジャンル化・客観化した「百合」の向かう先は、「小説が書かれ読まれる理由」とも競合・衝突するもので、創作者自らが立ち止まって考え直す必要性の発信と明文化。
③フィクション全般では物語への回帰もみられる中で、洗練や最適化の形で、小説媒体での「百合」において創作者・読者の双方が「物語」から距離を取る閉塞感に対する悲観。

論者は、ゼロ年代が「少年(主人公)が、少女(ヒロイン)を消費する女性差別的なファンタジーの時代だった」とは思わない。
しかし、悲劇から恢復される機会すら奪われたまま「少女の物語」は取り残されていると感じたのは確かだ。
「作家なら、その自己批判的な態度を作品に昇華すべきだ」――その最中で「百合」を取り巻く環境は不可逆な変化を迎えている。

零合舎は何をすべきか - 『零合』は誰の場か

 それでもなお「好き」に逆らえない、どうにかして「好き」を通すために、小さな出版社を立ち上げました。

零合舎および『零合』は、良く言えば開拓者精神として、悪く言えば(元より無勢の)陣取りを覚悟の上で、作家主導により発足した場である。
成功した(「かのように見えた」だけだと今も考えている)創刊号を経ても、率直に「一年前から、より切迫した危機感」であり、5年来抱いてきた緊張の表出による問題提起だった。
表現の多様性が拡がり切らない形での定着は、今後描かれ得る物語の可能性の剪定に直結するという危機感を常に有するべきだ。
直近の数年だけを見て、文芸の「百合」を『拡がりきった市場』と考えるのは、誤りと言わざるを得ないように思えた。

『零合』創刊に際して、編集兼作家として立った以上、第2号では「百合の中で百合を創作するに留まらない挑戦」が求められた。
「表現者の側に立ち、より文芸同人的に」を推し進めるには「創刊号が一定まで受け容れられる」ことが必要だった。

 時折、作品への賛辞として「百合なんて言葉で言い表せない」等の表現が用いられます。
 また、「このふたりは百合と捉えていいですか?」と口癖のように尋ねられます。
 あえて百合という表現を避けるとき、そこには何らかの「答え」が介在します。その「解」に近づくほど百合の中心は空っぽになっていく。

漫画等の他媒体に比べて試行錯誤の期間を経ず、そもそも百合が百合として論じられないまま、何らかのすり替えが行われている。
「それは欺瞞と言えないか?」――創刊時点、つまりは次号予告の際から「ゼロ年代的な物語」の導入を試みる大きな動機があった。

エゴの話をすればこの一年、創作物そのものより本人の属性・立場が、確信犯的な合意のもとで権威化していくことに失望し続けてきた。
「私」(とあえて書く)はそのような権威に同調しないし、「人物(キャラクターとは書かない)に切実さをもって応答する作家」に憧れる以上、「中途半端に都合の良い現実」には警戒して一定の距離感を保つべきだ。
『零合』は「百合」を回収してしまう外圧への抵抗でもある。

ゼロ年代とは何か - 主観と世界の摩擦の物語

ここでは「作品世界(多数派)における最大公約数 VS 作中のふたり(少数派)にとって守るべき最小公倍数」という価値観の衝突を『ゼロ年代的な物語』として扱う。
非力な――即ち若いか幼いか何らかのハンデを抱える――主人公が大きな出来事に遭遇し、手の届き得る範囲で葛藤・思索する、ときにはその身を差し出して抗っていくこと。
かつてのボーイ・ミーツ・ガールにおいて、最も身近な多数派は「大人たち」であり、少数派=数奇な運命を背負った者である「主人公(たち)」は必ずと言っていいほど反感を抱き、価値観の相違によりドラマが発生する。(これは後述の「逃避行もの」とも接続される現象と言ってよいだろう)
物語のレイヤが、ふたり<家族<社会<世界と大きくなった際、複合的に用いられる『セカイ系』の観念においても、上記の二項対立は(小さな世界・大きな世界いずれでも)おおよそ不可欠な要素として描かれている。

 きみと、往々にして「ぼく」が中心だった。視野の狭い主人公の切実すぎる語り。作家の、人物に対するあまりある誠実さ。それ故読者まで苦しんだあのゼロ年代の全てが愛おしい。

百合と(の)ゼロ年代とは、「作家が切実な人生の話を描き、読者が主人公の目線で受け止める」という営みを、いま「百合」というフィールドで行うこと。
第2号のテーゼは、主人公の立場から物語を捉える・読者に主観的な体験を促す「主観百合」の試みである。

※以下、『零合』第2号の作品について一部ネタバレを含みます。

「きみとぼく」は「あなたとわたし」へ

一人称では、1作目に掲載の佐藤友哉「大火」が『大きな世界』(戦争)と関係する主人公を描く一方、綾加奈「腐り落ちてなお」は『小さな世界』(家族)にフォーカスした。
青島もうじき「標のない」を2作目に掲載したのは、感情の交流の中で「わたしとあなたの秘密」が「世界における秘密」と直結し、相似形を描く点が興味深かったためである。
二人称小説として、セカイ系における「きみとぼく」の構造が「あなたとわたし」に位相を変え、ゼロ年代的な作品の本質を衝く・共鳴する一面を見せた作品と言える。
大人と子どもの対立、ときには過去の主人公/今の主人公という同一人物の中でさえ発生し得る葛藤、そういった迷い・変化の物語こそ「主人公の人生の話」=『零合』で扱いたい物語だと編者は考える。

百合と・の・と(の)[and,of,and(of)] - 収録作解説

一つ告白せねばならないが、編者が『零合』において描かれるストーリーに最も強く求める要素は「多義性」である。
第2号のテーマを「百合と」「百合の」でなく「百合と(の)」とした理由であり、読者に対して解釈が開かれた物語を好む性質にある。
高橋しん氏のカバーイラストでは、特に「守る/守られることの両義性」が優しく、しかし力強く表現されている。
今号の収録作について、あくまでも編集者の目線の後付けではあるが「と」「の」「と(の)」の3つに分けて簡単な紹介を行いたい。

and - ゼロ年代に主に少年の視点で描かれてきた題材を女性の物語として語り直すこと。
of - 『零合』誌上でしか「百合小説」として発表されない/受け止めきれないであろう作品。
and(of) - 2000年代当時の原風景に作家自身が立ち返って捧げる精神を感じるもの。

and - 女性同士の物語として語り直す

佐藤友哉「大火」
主人公の選択が世界の命運と繋がる=セカイ系的な接続を見せるもの。「逃避行」というシチュエーション、不思議と爽やかな帰結は、いかにも筆者の得意とするゼロ年代的小説と言えた。
編集サイドのアオリ文で「日本のゼロ年代」と記したが『君たちはどう生きるか』『ゴジラ-1.0』の間を縫う戦時下の時代設定に「作家がいま描くべきこと」の共時性を覚えるのも確かだ。

綾加奈「腐り落ちてなお」
屈折した感情を最後まで抱えながら、吐露によってクライマックスが描かれる点は筆者の本領発揮であり、同時にラストでは多面的な関係性が立ち現れてくる構造の妙もあった。
必要最大限と言ってよいほどモノローグに紙幅を費やした点(本作も初稿から大きく刈り込んだ)、「感情の振れ幅」へのお膳立てとしての『ふたりの時間』に割く比重の面では、必要最小限とも言える「大火」と対照的に機能していた。

波木銅「国境沿いのピンボール・リザード」
「諦念と希望」という筆者のあとがきが示す通り、絶妙な示唆とウィットに富んでいた。「いまここ」ではない「ゼロ年代が現役のどこか」から、それでも「いまここ」に接続し得る可能性にフィクションの醍醐味が宿る短篇。

of - 物語の最新・最前を更新していく

青島もうじき「標のない」
前仲パ須田「トレイル・トゥ・スターライト」《前》

「ここがゼロ年代はじまりだ」と言える新味に満ちた「百合」のミックスの点において、『零合』が〝唯一百合のノンジャンル文芸誌〟を掲げる上で白眉だろう。
片や落ち着き切った中で秘めたる構造が現れるSF、片や危なっかしいクライム(ハードボイルド)と全く性質は異なるものの、創刊号からより一層の拡張を感じさせる意欲作である。
読んで感じていただきたいが、「百合小説」として世に出ることで「百合」そのものを拡張していく長い射程距離・関係の可能性を感じさせる二作となっている。

and(of) - 作家自身を形作る風景に捧ぐ

伊藤なむあひ「Axe to Fall」《前》
00年代・北海道の(文字通り閉鎖的な)街という舞台設定、当時のカルチャーの影響を察せられる怪奇事件と軽妙なトーンで進む、その筋の者には「あの味」で通じそうな、しかし現代の読者もとっつきやすい長篇の第一回。

伊島糸雨「霧曳く繭のパスティーシュ」
『憧れ』との距離を描く(劇中の作品が伊藤計劃を意識しているのは明確であろう)筆者自身のゼロ年代に捧ぐ応答のように、いかついSFを得意とする普段の筆者とは打って変わって、どこか愛おしいSFだった。

と(の) -> との -> ? - 物語は「わたし」に寄り添う

汐都れむ「グッバイスタンダー」《長篇一挙掲載》は、少女の物語/前衛たる小説/ゼロ年代サブカルチャーの濫読が生み出した畸形のように、and/of/and(of)を束ねながら展開された。
ゼロ年代的な物語における間違いと失敗、残酷さと克服を描く上で、ほかでもない『2007年』を舞台とする必然性があった。
作中冒頭、階段の踊り場に掲げられた『絵画の二人』を更新するような少女たちとの遭遇、「戯画化された百合」が幻想的に描写される。
主観人物である唯野詠瑚(モブ役=ただの「A子」と掛けた冗句である)が、ふたりを額縁のように見守る役に徹することを決意をするプロローグから本作は始まる。

※以下、汐都れむ「グッバイスタンダー」に関する直接的なネタバレを含みます。

with - 「わたし」に付き纏う物語/主人公の起こり

『絵画の二人』は「百合」をまなざす観客の『理想像』にほかならず、詠瑚は物語に干渉しない/傍観者として鑑賞する第三者(即ち「百合」における模範的読者)を代弁し、〝イズミ〟による同音異義語(homophone)が示すように「詠瑚」でなく名無しの「A子」に固執する。
詠瑚は主観人物=主人公だが、1章はそれを徹底的に拒絶して終わり、2章では「なぜ主人公から逃げるか」が〝安直な存在〟との交流で明かされ、やがて「逃げられはしない」ことを告げる第三者の登場により『ただのA子』という仮面を被った傍観者は引導を渡される――これが本作のあらすじである。
関係し得る全て=世界が安全でなかったことを自覚した瞬間、「わたし」は傍観者から主人公へと激しく揺り戻され、過去の自分VS今の自分という二項対立(詠瑚の内での「戦争」)が発生する。
「主人公を喪失した少女が、主人公へと恢復する」だけの成長譚は『原初で最小のセカイ系』というコピー通り、開始以降に病院から一歩も出ることなく、仕舞いには病室の一部屋まで世界が矮小化され、やがて「ひとり」という極点に辿り着く。
作中における重要な人物(あるいはモチーフ)として〝圧縮〟を暗示する「モノ」の登場で、生死/自他/今昔を激しく引き裂いていく。

絵画の二人 - 一瞬を切り取る「枠」

 わたしは傍らの、ベッドの脇の、この病室では最初から何もなかった一隅へと目をやった。
 衝撃。世界が揺れて壁が傾いてくる。
 爆発。壁を支える大黒柱が弾け飛ぶ。
 轟音。辺り一面は夢を流したように。
 どさどさと全てが落下していく。管楽器に似た音を立てて、最後に足元にはそれが転がる。
 わたしの視界にちょうど入ってくる。
 一脚のパイプ椅子。
 B子とわたしを繋ぎ止めていたもの。
 イズミの部屋には元々なかったであろうもの。

上記は、作中でも極めて画の連続の意識のもとに「撮られた」であろう短いラストシーンの一節である。
「作為的・メタな視点――待ちポジションの構図/この病室ではとあるように――舞台を変えた同ポジション/劇中で大きな意味を持つ――パイプ椅子というメタファーの反復」の3つが複合的に用いられている。
後ろ一つを除き本来『映像の文法』であるこれらは、詩情に満ちた語りから明けたドライな種明かしとして、直前1行の会話文&左ページの挿絵が見開きに収まる形で、版面の完全な制御により成されている。

一連のp.471下~p.474下は、汐都氏のプロットにトアケミカゲ氏が先行して挿絵を作画、本文は校了当日に丸々挿し込まれた追加カットである。(本作は全篇がAdobe InDesignにより「編集」された)
先に画コンテを切り、それを元に画面を作り「目にする映像」を再現することで「主人公=読者の同一化」が試みられた、原作・作画の阿吽の呼吸はもとより、筆者の拘泥し続ける「小説の形をとるアニメーション」的意識が結実した一瞬であった。

「百合と(の)ゼロ年代」とは何か - 第2号を終えて

百合総合文芸誌としての『零合』は、ようやく「百合が百合として、物語との周回遅れのランデヴーを果たした」と考えている。
間違いによる痛みと後悔を描くこと、葛藤する主人公に読者自身が「自分」という感情移入のフィルターを通して作品世界に触れること。
ときに残酷な――ゼロ年代に少年の視座で描かれ/男性によって受容・批評が成された――未だに生き続ける切実な時代と、誠実に向き合うこと。
恢復の機会さえ奪われ取り残された・ヒロインとして切り取られた「彼女の物語」に終止符を打ち、新たな形で一歩進めること。

「存在したかもしれない自分」として「百合」が書(描)かれ読まれることに期待する、作家らの愛によって、いま一度それを試みる場だったと言えよう。



〈了〉

📕

🔖

📖

著者について

関連する本